LUCIE

Writing and Directioning

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  • ミュージキャットのクラシック・ゼミナール 第2回「ショパンの巻」

    こんにちは。吾輩は、このところ"ピアノの詩人"ショパン(1710~49)にハマっております。

    生誕200年のメモリアル・イヤーを過ぎても、人気は相変わらず。彼の作品は、即興演奏から生まれたかのような自由性に富んでる。しかもエレガントでありながら熱いエネルギーを秘めているからねぇ。当時まだ6オクターブ半程度だったピアノの鍵盤をめいっぱい使ったり、ペダルでゲンを響かせたりしてロマンチックな世界に誘う「ノクターン」や「エチュード」。「マズルカ」「ポロネーズ」「ワルツ」といったダンスのリズムを、速度を微妙に早めたり緩めたりして、心地よく聴けるピアノ曲にしたり…。

    パリのサロンでリストと人気を二分していたそうやけど、こんな作品を作れて、しかもカッコよく弾けたんやから、そりゃモテるわ。ちなみに、肺病で神経質なショパンに対し、リストは根っからの女好きで超絶技巧な曲を派手なアクションをつけて弾いて"ピアノの魔術師"と呼ばれてたくらいやから、追っかけてたファンもきっとタイプが違っていたやろね。

    ところで、こんなショパンに特技があったのご存じですかな。なんと彼は子供の頃から"ものまね"上手で、サロンでも詩人のハイネ、デュマ、ミュッセ、友だちで画家のドラクロワやリスト、はたまたフリードリヒ大王・・・、とまあいろんな人の真似をして周囲を笑わせたそうや。ネタにされてた人と面識がなくても、会ったら「この人」とすぐに分かったくらいやったというから、かなりの芸達者。"ピアノの詩人"が"ものまね大王"だったとは!

    そういえば、彼の作品には、恋人のジョルジュ・サンドが飼ってた小犬が自分のしっぽを追ってぐるぐる回る様子を表したといわれる「小犬のワルツ」をはじめ、「革命のエチュード」とか「英雄ポロネーズ」とか、情景がリアルに伝わってくる心地がする曲がいろいろあるねえ。

    ものまねも作曲も"鋭い観察眼と豊かな表現力のなせる業!"な~んて、"ミュージキャット流ショパン分析"は、楽しいですやろ!?

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  • ミュージキャットのクラシック・ゼミナール 第1回「ガラ・コンサートの巻」

    吾輩は、関西生まれのミュージキャットであります。
    こっそり音楽ホールに棲みついて、演奏を聴いたり、音楽家やスタッフらの生態を観察したり、たまにゼミナールを開いてみたり、毎日シャバダバ・・・。

    ただ、近ごろちょっと睡眠不足でなんだかダルくて・・・。開館20周年「ガラ・コンサート」の準備で、朝早うからスタッフがバタバタ走り回って、ゆっくり寝れへんのです。

    プログラム、かなり面白いから、気合い入ってる感じやね。バッハのパイプオルガンに、雅楽それも篳篥(ひちりき)でオペラのアリアやて、かなり斬新や。さらにチャイコフスキーのピアノ協奏曲、オペレッタ「こうもり」のハイライト…、もう「ステーキとうどんすきとチョコケーキと…、同時に食べるん?」て感じ。

    けど、ガラ公演は大晦日のNHK「紅白歌合戦」みたいなもんで、普段なら同じ舞台に立たんようなスターたちが、この時ばかりは勢揃い!名曲や名シーンを次々と披露する晴れ舞台やから、普段あり得ないような食べ合わせの方が旨い、面白い。それまで知らんかった楽曲や楽器、音楽家を知ることができる、まさに"チャンスの宝石箱"や!そうして生まれた"好奇心の芽"を自分なりに育てていけば、クラシックがだんだん面白うなります。

    たとえば今回登場する篳篥やけど、吾輩には忘れられない思い出が。
    篳篥を初めて聴いた学生時代、オーボエによく似た"懐かしい草笛風の響き"だったので、不思議な心地がしたんです。篳篥を短い竹笛と思い込んでたので、想像と違う音だったんですな。そこで早速調べましたら、なんと吹き口(リード)に植物の蘆(あし)を使うてるやありませんか。オーボエと同じや、そりゃ、音も似るわ!

    ただしオーボエより音が不安定。進化の過程でピッチの安定性を追究した西洋の木管楽器との違いやね。でも言い換えれば、ひとつの音に幅があって、カーブをつけながら奏でることができる。いったんちょっと下げてから持ち上げる感じの響きなんか、ほんまに独特。これはほんの一例やけれど、自分の興味にそってCDを聞き比べたりすると、いろいろと分かってきて楽しいもんやね。

    さて、不況の昨今、ガラを自宅で愉しめるお得な手もございますよ。メトロポリタン・オペラやウィーン国立歌劇場をはじめ、海外の有名歌劇場のガラともなると、世界のセレブがレッドカーペットを席巻して、客席の顔ぶれまで超豪華。そのシーズン登板のスターたちが、演目の名シーンを初日前夜にお披露目することが多いですが、チケットもお高いから、こういうのはDVDやね。家飲みにDVDガラ、これまたブラボーですわ!

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  • ミュージキャットのクラシック・ゼミナール

    これは、大阪のいずみホール音楽情報誌「Jupiter/ジュピター」の連載に加筆して、新たにWEB連載するものです!

    ひとコマ漫画は、クラシックを愛する漫画家・小澤一雄さん。小澤さんの漫画は、NHK「N響アワー」のオープニング動画でもおなじみ。

    主人公のミュージキャットは、大阪城の近くで生まれ、今は音楽ホールを棲み処としている音楽大好きネコ。ただしオペラ座の怪人みたいな不気味な存在ではなく、関西ことばでユーモラスに話をします。好きな食べ物は、お好み焼きとたこ焼き!?

    「人間界のみならずネコ界でも"知るは楽しみなり"と申します。そして、音楽との出会いふれあいが多いほど、心が豊かになって人生が楽しくなるのも、共通です」-by Musicat

    ※いずみホール
    大阪城の近くにある音楽専用ホール。1990年4月に室内楽ホールとして開館(821席)。品のいい装飾レリーフが施されたウッディな空間、耳に優しくて明るい音色を愉しめます。また、パイプオルガン(仏、ケーニッヒ社製)ショパンやリストらが生きていた時代のフォルテピアノ(ナネッテ・シュトライヒャー製、1820年代)や95鍵のベーゼンドルファーインペリアルなど、特長のある楽器も所有しています。

    http://www.izumihall.co.jp/

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  • ル・サロン・やなか「やなかLucieサロン」 ~アートを通じて「人生の選択」を考える「メアリー・ブレア原画展」

    ●番組ガイド

    2012年"LeSalonやなか"制作。ナビゲーター、文化ジャーナリストLucie原納と"スタジオジブリ"プロデューサー田中千義のトーク。"ル・サロンやなか"は今、話題の下町、谷中の中心に位置する文化発信のサロン!建築家吉池恒行、ピアニスト小形眞子、外務省語学研修所主任講師Singh FAYE(ファイ・シング)による美術、建築、音楽、語学を核として、椅子作り、スタジオライティングなど「大人のためのクラブ活動」、多彩なゲストをお招きしてのトークショー、朗読、「一人芝居」の公演などを開催。

    「メアリー・ブレア原画展」公式ホームページでも紹介されています。

    http://www.maryblair.jp/topics

    1.「メアリー・ブレア原画展」までの足跡

    毎夏、東京都現代美術館でアート展を企画しているスタジオジブリ。2006年「ディズニー・アート展」を企画する際、田中さんたちは千葉大学に寄贈されていたディズニー作品に、ウォルト・ディズニー・アニメーション・リサーチライブラリーの収蔵品をプラスして開催しようと訪米。ライブラリーで、メアリーのコンセプトアートの素晴らしさに感動し、コーナーを設けて展示することに。好評で「いつかメアリーの展覧会を開きたいね」という思いが芽生え、やがて遺族を訪ねることに。

    2.メアリーのコンセプトアート

    メアリーの息子・ケヴィンさんを訪ねた田中さんたち。日本で作品展を開きたいと申し出るが、なかなか承諾してくれない。家には、至る所にメアリーの作品があふれているのに。しかしラッキーなことに、作品の整理を手伝いに来ていた映画監督のピート・ドクターのフォローでOKが!ドクター監督は、自称"世界一のメアリーファン"で、中でも『小さな家』が大好き。これがアカデミー賞作品『カールじいさんの空飛ぶ家』の原点と知ったLucieは、自分も子供の頃この作品に感動したことや、原作のヴァージニア・リー・バートンの絵本の挿絵とメアリーの絵の違いに驚いたことなどを話す。

    3.アニメ黎明期の女性アーティスト、メアリー

    2008年、ケヴィンさんが急に亡くなり、メアリー作品はいとこに引き継がれたが、翌2009年東京都現代美術館で「メアリー・ブレア展」は無事開催。好評を博し、遺族の所蔵品をスタジオジブリが引き継ぐことに。素晴らしいコレクションを多くの人に見てもらおうと、メアリー生誕100年の昨年から、3年がかりの巡回展が始まった。メアリーが、ウォルト・ディズニー・スタジオに入ったのは1939年。女性は家庭を守るものとされていた時代、ウォルトに才能を見込まれてのことだったが、夫リー・ブレアはオリンピックの文化部門で金メダルを獲得したほどの逸材で、一歩先に同社で働いていた。

    4.退職からわずか2か月、南米旅行で職場復帰

    ほんとは画家になりたかった、リーとメアリー。アニメの仕事は、自分の描きたいものを思いのまま表現するファインアートとは対極的で、メアリーは1941年ディズニー・スタジオをいったん辞めてしまう。ところが、2か月後に復帰!ウォルトをはじめとするスタジオのメンバーや夫のリーらが南米へ映画の調査旅行に行くと知り、これに加わることに。彼女の才能が開花していくきっかけとなる。

    5.あふれる才能、NY⇔LA往復生活

    メアリーの、フラットで独特の色彩の画風は、動画にする際、技術的に難しいことも多く、ウォルトが彼女を高く評価すればするほど、女性アーチストのメアリーに対する職場の風当たりは穏やかではなかった。夫のリーも例外ではなく、1946年独立してニューヨークにCMスタジオを設立。メアリーは、リーとニューヨークに移るも、ディズニーの仕事を続け、ロサンゼルスとの往復生活を送ることに。この間、長男のドノヴァン、次男のケヴィンが誕生。フリーになったのは1953年だった・・・。

    6.再びディズニーと、集大成的事業に着手

    フリーになってからは、子供を題材にした絵を多く手がけたメアリー。絵本「I CAN FLY(わたしはとべる)」やさまざまなCMアートなど。やがて10年の月日が流れ、彼女にふたたびディズニー社から仕事の依頼が。1964年のニューヨーク世界博覧会のアトラクションで「イッツ・ア・スモール・ワールド」を制作。また、スタジオジブリに託児所があることをはじめ、女性の労働環境の変化、メアリーに影響を受けたアーチストの話しも飛び出す。

    7.メアリーとウォルト、出会いはケミストリー

    ウォルトとの出会い抜きで語れないメアリーの人生。田中さんは、スタジオジブリの宮崎駿さんと鈴木敏夫さんの出会いも同様だと語る。メアリーの人生の選択を思いながら、今回の原画展をさらに楽しめる方法を田中さんに伺う。

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